2018年7月23日・24日 21寄港地目(21/25寄港地)
太平洋とカリブ海をつなぐパナマ運河のカリブ海側の玄関口となるクリストバル港。
周辺には豊かな熱帯雨林が広がります。
クリストバル港の目の前には港町コロンがありますが、
昼間でもスリや強盗などの被害が多発していとのことでした。
港ターミナルは柵で囲われており、19時以降は安全の都合上ターミナルの外へ出ることは禁止となっていました。
ここでは『パナマの最貧困地区を訪問~パナマ侵攻を通して平和な未来を考える~』ツアーに参加しました。
安全面で事前に聞いていた情報もあったため、もしかしたら何か事件が起こるのではないかと正直怖い気持ちが強くありました。
そんななか今回訪問したのは、1989年の米軍によるパナマ侵攻時に最大の激戦地となり、
今では最貧困地区となっているエル・チョリージョ地区。
クリストバス港からバスで約1時間半かけてパナマシティまで移動しました。
教会に避難して生き延びた女性たちの貴重な証言を、実際に避難されていた教会で聞くことができました。
子どもを連れて必死に教会へ避難したこと、教会で缶詰め状態の生活だったこと。
重い口を開いて辛かった出来事を話してくれている様子でした。
私たちに話すことで当時のことを思い出してしまい、辛い思いをさせてしまっているようにも感じました。
実際に、証言の途中で辛くなって話をやめてしまった方もいました。
しかし、話し終わった後に「日本からこの話を聞きに来てくれたことに感謝しています。」といったようなことを言ってくれていて少し安心しました。
教会に残されていた写真も見せていただくことができました。
パナマ侵攻から見えてくる、米国と中南米の関係性。
1989年12月20日深夜、当時のブッシュ大統領の命を受けた米軍がパナマに侵攻しました。
ツアーで訪れたエル・チョリージョ地区を中心にパナマ市各所が空爆されました。
侵攻の理由は、麻薬取引およびトリホス大統領の暗殺に関与したという容疑がかけられていたパナマ最高指導者ノリエガ将軍の逮捕。
米国陸海空軍5万人以上が動員され、最新型兵器も大量に投与される大規模な軍事作戦が展開されました。
集中的な空爆を受けたエル・チョリージョ地区は焼け野原となり、空爆後に数日間にわたり封鎖され、国際機関や医師団、報道機関も立ち入りが禁じられました。
立ち入り禁止が解除された時にはすでに更地になっており、そこで繰り広げられた戦闘作戦や3000~8000人とも言われる死者の正確な人数は確認できないまま、多くの謎と疑惑が残っています。
パナマ侵攻のことは教科書にも載っておらず、
証言で語り継がないと忘れられてなかったことになってしまう可能性があるとのことでした。
米軍の軍事機密として不明なままのことも多いですが、忘れてはならない出来事であることは確かです。
証言の中で「他の国を干渉する米国のことは尊敬できない。」と言われていたのが印象的でした。
一部の金持ちや政治家の利害のために、多くの市民の命が失われるというのはあってはいけないことです。
多くの人が平和を望んでいるはずなのに、どうしてこんなに難しいのでしょう。
もっとシンプルに実現させましょうよ。
証言会の最後に、教会に来ていた子どもたちに支援物資を渡しました。
ピースボートでは、UPA(United Peoples Alliance)国際協力プロジェクトという、
世界各地へ支援物資を送る活動をしています。
国と国の利害関係に左右されない、
人と人とのつながりをつくることを目的に設立されたプロジェクトです。
パナマでは、衛生用品やスポーツ用品などを届けました。
教会から少し歩いて街の様子を見ました。
そこに暮らす人たちの生活空間をパシャパシャ写真で撮るのは失礼だと思い、
最小限にしてカメラを構えました。
また最貧困地区では、カメラをかばんから出すことにも危険があると言われました。
珍しいものを見て欲しくなる気持ちは少し考えればわからないでもないですよね。
20~30分ほど街を歩いただけでしたが、
バスに乗り込む予定だった公園に着いたときにガイドさんが「こんなに安全にガイドができて安心している。」と話されました。
それほど危険な地区であることが伝わってきたとともに、今後よくなることを願うばかりでした。
夕食はコースのお店でいただきました。
ごはんにはセロリが混ぜられていてセロリ独特のニオイと味が強めでした。
レモネードは味が濃くてとってもおいしかったです。
アイスクリームも濃厚でした。
パナマでは、普通の観光では行けないような場所に行けたことに心から感謝しています。
知らなかったとこを新たに知って、平和を改めて考えるきっかけになりました。
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