【イースター島】モアイ像の不思議・どうやってつくられたのか

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世界一周

2019年3月4日 14寄港地目(14/17寄港地)

なんとも日の出が美しすぎました

ピンクとパープルのグラデーションに見惚れてしまいました。

すごく楽しみだったイースター島!!!

南米大陸から約3,800km、タヒチから約4,000kmも離れた絶海の孤島

島民はラパ・ヌイ(大きな島)または、テ・ピト・オ・テ・ヘヌア(地球のヘソ)と呼ぶそうです。

大型客船が着岸できる港湾施設がないため、船は沖泊りでした。

10人ほどが乗れるテンダーボートを使っての上陸となりました。

到着までワクワク・ドキドキでした。

この島の面積の42%がラパヌイ国立公園に指定されており、1995年にはユネスコ世界遺産に登録されました。

およそ1,000体もの石の巨像、モアイ像があることで有名ですよね。

これらのモアイ像は、何のためにつくられたのか、どうやって運ばれたのか、そのほとんどが謎に包まれたまま

考古学者たちが提唱する諸説は仮説にすぎず、その神秘性が島の魅力を増す一因となっているのだと思います。

現在のような重機もなかった時代に、これほどまでに大きな石像をつくるのは簡単なことではなかったはずです。

そんなモアイ像の不思議を目で見て感じることができるツアーに参加しました。

まず初めに訪れたのが、海を背にモアイが15体並んでいる「アフ・トンガリキ」

モアイ倒し戦争や1960年のチリ沖地震による津波で破壊的なダメージを受けていましたが、

石を拾い集め、時間をかけて今の姿になっているそうです。

修復・復元には日本の会社の協力もあったとのことだったので誇らしい気持ちになりました。

最初はアフと呼ばれる祭壇だけをつくっていたそうですが、

権力をより顕著に示すために人の形の像がつくられるようになったそうです。

モアイ像は祖先をかたどった像と考えられているのが主流だそうです。

18世紀中頃に敵対する部族間で、互いの村の祖先の象徴であるモアイ像を次々に倒し合ったモアイ倒し戦争(フリ・モアイ)で19世紀にはすべてのモアイ像が倒されました。

現在、島内に立っている30数体のモアイ像は後に修復・復元されたものです。

15体のモアイ像から少し離れて立っている1体のモアイ像は旅するモアイといわれていて、

1970年の大阪エキスポ開催のときに来日したことがあるものです。

寝そべっているモアイ像もありました。

次に訪れた「ラノ・ララク」は、島内にあるほとんどのモアイ像が切り出された山で、

モアイ像の製造工場であった場所です。

顔だけが出ているモアイ像。

先ほど訪れたアフトンガリキが遠くに見えました。

正座をしているモアイ像。

モアイ・テ・トカンガと呼ばれるモアイ像は全長21.6mという特大サイズです。

当時は重機もないので、硬い石で作られた道具だけで高さ10mのモアイ像を30人がかりで1年以上かかってつくっていたと考えられているそうです。

次に訪れた「プナ・パウ」は、プカオを切り出した赤色凝灰岩の石切り場です。

プカオとは、モアイ像の頭の上にのっているものです。

平たい円柱の中央に突起がある形から、帽子とも、まげを結った髪ともいわれています。

帽子はわかりますが、髪の毛って面白いですよね。

丘の上からはオーシャンドリーム号が見られました。

最後に訪れたのが「タハイ」です。

ツアーだったのでバス移動でしたが、ハンガロア村から歩いて見に行くことができる唯一のモアイ像だそうです。

ほとんどのモアイ像は海に背を向けて立っています

村を守るために眼からマナと呼ばれる力を送り続けていたからだそうです。

海に向かって右側には眼のあるアフ・コテリクのモアイ像が1体。

中央にはアフ・タハイのモアイ像が1体。

左側には5体のモアイ像が並ぶアフ・バイ・ウリが立っています。

お土産ももちろんモアイ像でした。

モアイ像しかないといえばそうかもしれませんが、とっても素敵な島でまた訪れたくなる魅力がありました。

テンダーボートに乗る前に少しお土産を探しましたが、やはりモアイ像が多かったです。

船に戻ってからは、ラパヌイ伝統舞踊ショーがありました。

力強い男性と柔らかい女性の踊る姿は素敵でした。

最近はどこの国に行っても同じような服を着ていて、同じようなお店があってと同一化してきてしまってることを感じますが、このような昔ながらの文化や伝統を続けていくことの大切さを感じました。

次は【タヒチ/パペーテ】英語がうまく話せなくても現地の人と話すのは楽しい!

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